第一章 原始・古代の神門

第二節 古文書は語る

 『出雲國風土記』と『賑給帳』の世界

『出雲國風土記』は、天平五年(七三三)の年紀を持つ出雲国の地誌書で、現存する全国の五風土記(常陸、出雲、播磨、豊後、肥前)のうちで欠矢部のない唯一のものである。そして、風土記撰進の詔(和銅の詔)から数えて約二〇年を費やしてはいるが、その編集が国司ではなく国造出雲臣広嶋の手に任せられたこと、また国引き神話を初めとして記紀(古事記、日本書紀)と異なった所伝を載せている点に、史料的価値が高く特色がある。
この書が出来た時点を(第一節との関連から)古代史に位置づけてみると、「表3」によってうなづけよう。

日淵川の築提

『出雲國風土記』の神門郡・古志郷の項に、次の記載がある。
伊弉那彌命の時、日淵川を以て池を築造りたまひき。爾の時、古志の國人等到来りて、堤を爲りて、即て宿居れりし所なり。故、古志と云ふ。
伊弉那弥の時、日淵川を利用して池を築いた。その時、古志(越)の国の人たちがやって来て堤を作ったが、ここはその折宿っていたところである。だから、古志という。[吉野裕 訳]
伊弉那禰命は、日本神話に登場する伊弉諾尊の妻に当たる神で、この男女二神は記紀神話において、天津神の命によって創造活動のほとんどすべてを行い、「古事記」および「日本書紀」の一書によれば、最後には黄泉国との境において対立し、男神は人間の生を掌る神として、女神は人間の死を掌る冥界の神として互いに絶縁し、(中略)最後に三貴子と呼ばれる天照大神、月読尊、素戔鳴尊を生む=…と言う存在である。
この節で、「伊弉那禰命の時」と記しているのは、実在していない命ではあるが、「はるかに遠い原始時代」を意味しているのであろう。もっとも、素戔鳴尊(須佐能乎命)が「出雲國風土記」の世界で各所に登場するのに比べて、この命は「古志郷」にのみ現われ、また現在、比布智神社(下古志町)の祭神に鎮座しているのは、因縁深い感がある。

日淵川

芦渡町の山奥にある保知石谷の古い名は、「ひふち谷」つまり「日淵」に因ると言う説が有力で、昔この辺に置かれた「ほむち部(凡治部、品遅部)」に因るもので、垂仁天皇(紀元前三〇年ごろの在位、実在は疑わしい)の御子・誉津別皇子の故事と関連があるらしい。(布智村史・参照)
この谷から流れ出る川が後世の保知石川、現在の花月川で、その起点から少し下流の川の中に「天が淵」と言う名が残っている。堤を築き溜池を作った地点を想像させる。

古志の國人等

古志の地名の由来となった「古志の国」とは、どこだろう?
国内の地にこれを探せば、当然、高志道−越−北国が浮ぶ。吉田東伍博士の『大日本地名辞書』に依ると、「畿内の北東、日本海に面へる諸国を総べたり。若狭に起り越後に至る凡そ七国。上古には高志道と云ひ、中世以降北国と称す。東山道と相表裏し山川多く紛雑す。」
また、『角川地名大辞典・石川県』に依ると、「越 北陸地域の主要部の古称。古くから、出雲、伯耆、因幡などの山陰地域との間に、対馬海流を媒介と した密接な交流があったことが知られ……」と、述べられている。
これを手掛りとして、該当の四県県立図書館[福井県−若狭、越前国、石川県−能登、加賀国、富山県−越中国、新潟県−越後、佐渡国]あてに照会(一九九四・一〇)を行った。
―弍脊風土記に載る「古志の国人等」の存在を示す史料があるか?往古に(他地域へ移出する程の)土木技術が発達していたか?また、出雲国または他国へ移出、移住した事実があったか?……の二点である。

これに対し、各県からの回答は次のようであった。

・福井県の例

1)『継体天皇と越前・石橋重吉、一九三五刊』に次の記事がある。
 「古来、越前の地には、天皇治水説なる口碑伝説がある。武烈、継体天皇(西暦五〇〇年ごろ)が越前の三大川(日野、足羽、九頭龍)を開修して、水運と用水の便を図ったとのこと。

2)『福井県史・通史編1、原始・古代・一九九三・福井県刊』に、次の記事がある。
 「越の人びとが、出雲西部の神戸川下流域に移住したこともある。ことに、古志郷について

 は、その日淵川の流れによって「池を築造りき。その時、古志の国人等、到来たりて堤を爲りき」とある。このことから、灌漑技術の指導をコシの人が行ったことがわかる。そうした技術指導ができたのは、平野を横切る多くの河川を制御し、後に多様な継体天皇にまつわる治水伝説を生んだ越前であったから、この記事にみえる「古志の国人ら」はとりもなおさず越前の人たちとみてよいであらう。日本海文化の形成と発展には、このように、なりわいの基本であった農業生産にかかわる灌漑・土木技術の先進地から他地域への指導に移住した人びとの働きも、視野に入れておくことを忘れてはなるまい。」

・石川県の例

1)『加能史料・奈良、平安機Π豢緘二・石川県刊』に、次の記事がある。
  「二月小 己巳朔 三十日 出雲國風土記が勘造され、その中に越にかかわる伝承が収録される。
 [出雲國風土記] 神門郡(中略)古志郷。即属郡家。伊弉奈禰命之時、以日淵川、築造池。爾時、古志國人等到来而爲堤、即宿居之所也、故、云古志。(中略)狭結驛。郡家同慶。古志國佐與布云人、釆居之。故、云最邑。(略)

注1        加能史料=加賀、能登二カ国に関する史料を網羅し、その構成は編年体として年月日の順に従って綱文を掲げ、次に関係史料を列記している。本巻は欽明天皇三十一年(五七〇)より天長二年(八二五)の期間を収録。

注2        二月=天平四年壬申(七三二)

2)『日本海と出雲世界−海と列島文化−第2巻、森浩一代表、一九九一小学館刊』に、次の記事がある。

 日本海西地域の古代像(森 浩一)

「出雲世界と越 (略)広大な日本海沿岸の土地を巨視的にとらえると、西の出雲世界と東の越(ここでの世界は、いくつかの国を含む便宜上の呼称)とに二大別するのが当然のこととはいえ、改めて妥当に思えるようになってきた。(略)さらに地域の範囲について述べると、越は律令制成立以前は、福井・石川・富山・新潟・山形の諸県におよぶ広大な地域の呼称であった。ただし福井県西部の若狭は、丹後、但馬(兵庫県北部)とともに出雲世界と越世界との中間的な色合いが強い。(略) 『出雲國風土記』には、越または高志(以上二つは意宇郡の条)さらに古志という地名が登場する。とくに、神門郡には古志郷がある。その土地は「イザナミの命の時、日淵川をもって池を築造した。そのとき、古志の国人らが到来して堤をつくった。すなわち宿り居たところなり、だから古志という」との由来をのせている。この伝説によると、越世界には治水または灌漑の技術をもった集団がいて、その集団が出雲に移住し、事業が終わってからも定住した、ということになっている。(略)この地(古志)は日本海に入口をひらいていた神門水海(潟湖−一部に鹹水の区域のある湖)の東岸にあたり、古代出雲での海上交通の中心とみられ、神門臣勢力の繁栄、それも六世紀になって急成長をとげたふしのある繁栄は、この潟湖を利用した港(仮称潟港)を拠点にしたものであると考えられる。したがって、古志郷の地名伝説には直接うかがえなくとも、古志郷とは越の国人たちの交易や情報収集の出先地であったと私は推定している。」

3)『古代地域史の研究−北陸の古代の中世1、浅香年木著・一九七八・法政大学刊』に、次の記事がある。

 「(略)第一章で述べた如き姿勢の違いを内包するとはいえ、いうまでもなく、コシとイズモは、ともに日本海沿岸域に位置して、季節風と対馬海流によって直結されており、既に多様な現象形態を素材に多くの指摘がなされている如く、古代を通して、相互に若干の相違点を有しながらも、その地域間交流は極めて緊密であった。その痕跡は(略)

 さきに掲げた、コシとイヅモとの交流・交渉を主張する一連の諸伝承もまた、単にイヅモの内部において創出された地名付会伝承ではなく、また畿内勢力の改作でもなく、現実に展開していたコシ地域群とイヅモとの密接な結びつきを踏まえて形成された、ある程度の史実の反映であることは、多言を要しないであろう。(略)コシからイヅモの築堤工事に参加した集団があったとする伝承などは、具体的な人名・地名の信憑性は別として、完全な虚構の産物として捨て去ることはできないのであり、門脇氏が「国っ神に形象化された地域首長たちの間でだけの関係」ではなく「一般の人民たちの往来も示唆している」と強調される如く、一連の伝承が、コシとイヅモをつなぐ、日本海沿岸域を通した、かなり頻繁な文化的交流や政治的交渉が、人民諸階層の往来を含めて、現実に存在したことのあらわれであることは疑うことができない。」

・宮山県の例

1)『古代北陸と帰化氏族、米沢 康、一九六二、古代文化第九巻第五号、京都・小倉洲二刊』に、次の記事がある。
 「(略)古代北陸の帰化氏族(韓)に関する具体的史料は甚だ乏しく(略)古代北陸の開拓が、例えば砺波臣や生江臣にその著例を見るように、伝統的在地豪族によって進められ(略)加えて帰化民族との接触によって獲得し得た農耕・土木技術が、少なからぬ役割を担ったのではなかろうか。『出雲國風土記』神門郡条にみるように、古志郷や狭結駅における池の築造について、古志国人が来たって力を尽したというその背後には、古志国人の土木技術を示唆し、これを容認するものがあったと看做さねばならない。そうした古志国人が、本来の越国人というよりは寧ろ帰化民族系の者であろうことは、例えば、著名な韓人池(応神記)や茨田堤(仁徳記)の伝承が示唆するように、当代における土木工事の開発に帰化民族の寄与が大きかった事実からも考え及ぶところである。」(略)

2)『越と古代伝承、広瀬 誠、一九六七・富山史壇』に、次の記事がある。
 「古志人の池堤築造−(略)越の国の者が出雲の土木事業に従事したことを物語る伝承について、米沢康(前項関連)は、単なる労務者でなく、「その背後には、古志国人の土木技術を示唆し、これを容認するものがあった」と見、「そうした古志国人が本来の越国人というよりは、寧ろ帰化民族系の者であろう」とされたが、実に眼光紙背に徹する考察というべきである。(略)続日本紀は、行基について、「親ら弟子らを率ゐて諸の要害の処に於て橋を造り陂を築く」と伝えている。これは行基の高い徳望によって裏打ちされた仏教的社会事業であるから、もとより同日の談ではないが、古志人の職能集団は、その土木技術を売り物にして、諸国を渡り歩くこと、あたかも行基を彷彿させるものがあったのではなかろうか。いな、むしろ行基のほうが、このようなな技術集団の巡国労働を手本にして、これを高い理想によって実行したと考えることもできるのではなかろうか。あるいは、古志人技術集団は行基に感化されて、彼の信仰集団に吸収され、その一翼を担っていたかもしれぬのである。いうまでもなく、行基は、河内国大島郡の生れで、帰化人王仁の子孫、高志才智の子である。

(注)行基(六六八〜七四九)天武十一年に出家し、慶雲元年頃から私的に布教と各地の開発を行う。従う人千人以上であったという。

 (略)帰化人の子孫行基の生れ育った河内・和泉地方がイザナギ神話圏の中枢地帯で(これと関連ある)イザナミノ命を古志の土木技術集団が奉じていたのではなかろうか。諸国を渡り歩く職能的移動集団はそのような神威を必要としており、イザナミの神名を掲げて入りこんだことに、出雲人が強く心を動かされたのではなかろうか。『出雲國風土記』の「伊弉那禰命の時」の語は、そんな事を思わせる。

3)『富山県史・通史編機Ω胸蓮Ω殿紂Π豢綣系察富山県刊』に、次の記事がある。
 (略) (出雲國風土記の)古志人の築堤伝承は、よほど出雲人に強い印象を与えたのだろう。これについて米沢康(前項関連)は、単なる労務者ではなく、「その背後には、古志国人の土木技術を示唆し、これを容認するものがあった」と見、「そうした古志国人が本来の越国人というよりは寧ろ帰化民族系の者であろう」としている。従うべき見解であろう。

これに次いで、行基と土木技術集団との関係について、前項のとおり認めている。

・新潟県の例

 『新潟県史・通史編1・原始・古代・一九八六、新潟県刊』に、次の記事がある。
 「出雲國風土記の中で、越国のごとく密接な関係を示す話を残している国はなく、出雲と越との深い関係を示している。(略)越後側の神話・伝説がないので、一万的な伝承にとどまらざるを得ない。(略)越から移住して古志郷と狭結駅の地名の起源となっている。海流の関係からみれば出雲より越へ移住することがあってもよいが、その跡は残されていない。」

 以上、照会先四県から教示された史料によって、「越と出雲との密接な交流」の傍証を得ることができたので、ここに改めて関係各位に対する謝意を表しておきたい。

佐與布

狹結驛。郡家と同じき虞處なり。古志國の佐與布と云ふ人釆り居めり。故、最邑と云ふ。
 古志町の神門郡家と同所にあった狭結驛(公用の官人のために駅馬を備えた所)に移住した古志国人の彼は、おそらく土木技術者集団の指導的人物であっただろう。「佐与布のように、神でも貴人でもなく、高級官人でも地方豪族でもない者の名が、地名にかけて記憶されているという例は稀で、『出雲國風土記』 ではこの一例のみである。」と、富山県史は述べている。

 (注)佐与布の廟が、宝塚古墳(一保塚)とする雲陽誌記事は、古墳の項・参照

宇加池 

宇加池。周り三里六十歩あり。(注) 周囲=一・七銑

 『日本海西地域の古代像』(前項)森浩一は次のように述べている。
 「古志本郷遺跡の南方は、神戸川支流の新宮川が回折した谷状地形になる。この谷のほぼ入口の西側にさらに小さな谷状地形があり、その西のつきあたりに周囲四五〇辰僚餡戝咾ある。」この池こそ、さきに引用した「古志の国人らが到来して堤をつくった」という記事の宇賀池に比定されている。

 現在の池は小さいけれども、東方約四五〇辰涼口に、谷口を塞ぐようにして幅二五叩長さ一四〇辰砲錣燭訶變歉の土手、つまり池の堤があり、この堤から現在の池を含めたものが「宇迦池」とすると、周囲一・七銑辰旅大な池になるという。」

(注) 『出雲國風土記』には、この外に釆食池(下古志町、池の内)、笠柄池(保知石、浅柄)を載せているが、今は水田となっている。これらの池は、農業用水池と思われるが、後年(一六九〇頃)十間川の開削によってその使命を終え、良田と化した。ただし、宇加池は、その地理、地形から見て単なる農業用ばかりでなく、古志地区防衛の兵事上の必要があったかもしれないと、森博士は推論されている。

賑給帳

 『出雲國大税賑給歴名帳』は、天平十一年(七三九)の文書で、正倉院に伝わる貴重な資料である。奈良・律令制においては課税(租・調・庸)を厳しくする反面、生活困窮者に対しては給与米を与える福祉行政にも留意している。賑はめぐむ、ゆたか、給はあてがうの意があり、給付を受けた人々の名を書き上げた帳簿の断簡(出雲郡と神門郡のみ)を賑給帳と言う。

 この内、完全集計が残る神門郡をみると、

九十歳以上、二人(米一石、今の四斗給与)、八十歳以上、二三人(米五斗、今の二斗給与)、六十歳以上妻なき者一五人(同前)、六十歳以上、夫なき者三三四人(同前)、十五歳以下の孤児九〇人(同前)、独居者一人(同前)、自存不能者五六人(三斗(一斗二升))合計五二一人(二五〇石三斗、今の一〇〇石一斗二升)

(注)自存不能者→身体障害者か?

[加藤義成著「風土記にみる古代出雲びと・一九八四刊」

さらに、神門郡の内で、神門地区関連をみると、

・池井里(知井宮の前身)

 戸主神門臣小根□吉備部袁美奈賣年五十五
 戸主神門臣家麻呂□語部道女年六十九 外九人

・足幡里(芦渡の前身)

 戸主若倭部連廣足□日置部牛賣年七十四
 戸主刑部牛麻呂□倭文部久津賣年六十四 外一六人

・狹結驛(古志の一部の前身)

 戸主刑部臣白麻呂□神門臣族玉足賣年七十九
 戸主物部馬足□財部常麻呂年六 外一八人

これらを氏姓別にみると、次のとおりである。

神門臣17、刑部臣6、吉備部6、物部5、語部3、若倭部3、若櫻部2、日置部2、建部1、勝部1、

伊福部1、倭文部1、不知山部1   計49

 当時の姓名の用字は、もとより命名者や筆録者によるもので、当人たちは文盲が多く、多くは口頭で呼ばれていたものであろうが、つとめて同名を避けていたこと、女には必ず「め」(女・売)を付けたことが知られる。(加藤義成考察)
 何はともあれ、この地区に住んでいた遠い祖先が、正倉院文書の中に個人名の形でその存在を残していることは、意義深い。(注)賑給帳写は、県立図書館に保存されている。

神門川

 源は飯石郡の琴引山より出でて北に流れ、即ち釆嶋、波多・須佐の三郷を經て、神門郡の餘戸里門立村に出で、即ち神戸・朝山・古志等の三郷を經、西に流れて水海に入る。則ち、年魚・鮭・麻須・伊具比あり。
  (注) 門立=乙立、神戸=所原、水海=神門水海、年魚=鮎、麻須=綽、伊具比=ウグイ

 神戸川は、今風に言えば、「赤名峠の西、女亀山(標高八三〇叩砲妨擦鯣し、出雲西部の峡谷(赤来町、頓原町、佐田町、出雲市)を蛇行流下して、大社湾に注ぐ延長八一銑叩⇔域面積四七一平方銑辰硫論遒任△襦廚箸覆蹐Αその流路と河勢は(ダム湖開発以外は)馬木町辺までは天平時代とあまり変わっていないと思われるが、出雲平野へ流下してからは、出雲大川(斐伊川)との混流もあって、後世にはかなり変遷している。
 それにしても、この時代にサケやマスがかなり上流までさかのぼっていたことは、川の原始の姿を見るようである。

  (注) 近世以降の川筋の変遷は、第七編第一章・参照

神門臣伊加曾然

神門と號くる所以は、神門臣伊加曾然が時に、神門貢りき。故、神門と云ふ。即ち神門臣等、古より今に至るまで、常に此の處に居めり。故、神門と云ふ。
 神門臣は出雲臣同祖で「天穂日命の十二世孫鵜濡渟命の後裔」(姓氏録)とされる。伊加曾然は不明。神門は鳥居のようなものとされるが、ここはむしろ神処の意で、古墳の築造伝承との混同があると見ていいようである。(吉野裕考察)
 神門臣と言う姓は、先の賑給帳にも最も多く、また当時の豪族・大領にも列せられており、それが後世まで「神門」と言う地名に残るのも、当然であろう。

神門水海

郡家の正西四里五十歩なり。周り三十五里七十四歩あり。裏には則ち鯔魚・鎮仁・須受枳・鮒・玄蠣あり。即ち水海と大海との間に山あり。長さ二十二里二百三十四歩、廣さ三里あり。此は意美豆努命の國引き坐しし時の綱なり。
今俗人、號けて薗松山と云ふ。(略)

(注)一里=五三四・五四叩一歩=一・七八叩⊇銃麥い楼貊銃麥い慮蹐?意美豆努命=八束水臣津野命、薗の松山=園の長浜。西園一帯の砂丘

 今の神西湖の前身で、この時代は西北浜山山麓に迫り、西は日本海に出口を持つ大湖(周囲約一九銑但現在約五・六銑叩砲如琵琶湖を小さくした形状に似ていた。
 そこへ、斐伊川、神戸川が流れ入って沖積によって次第に陸地化して縮小した。従って、今の神門地区北部は、ほとんど水底にあった。(前項、多聞院貝塚・参照)
 なお、『出雲國風土記』時代(八世紀初頭) の出雲平野の地形を略記してみる。六、000年〜五、000年前頃(縄文時代前期〜中期)にかけて気温の上昇は最盛期を迎え、海面は現在よりも数辰曚評緇困靴拭この海進(海面が上昇して、海岸線が陸側に移動すること)は、三、000年頃(縄文時代晩期)から海退へと移り、弥生時代を迎えると海面下の堆積物は地表に現われ、出雲平野は陸化した。
 八世紀初頭(風土記時代)には、再び海面がわずかに上昇して、神門水海が形成されたのである。(略)

 [出雲平野のおいたち−出雲市立出雲文化伝承館・パネル]